第四節 終着点は時の彼方に


 私に最終的に「狐娘」の起源に関するヒントを与えてくれたのは、こちらの論文でした。茨城大学人文学部人文学科中国文学専修(今は学部名が違うようですが)の卒業生の方の論文で、題名通り中国の「志怪小説」「伝奇小説」と呼ばれる小説群での狐の扱われ方を研究したものです。これ自体も面白いのでおすすめなのですが、今回私をびびらせたのが第二章第二節にある、『呉越春秋』という歴史書に出て来る話です。

 『呉越春秋』とは春秋時代の呉・越の両国の歴史について記した歴史書です。編者は趙曄という人で、全10巻。成立年は不詳ですが、後漢代であることはまず間違いないようです。後漢代というと、1世紀初め〜3世紀初めです。いや、最後の100年くらいは董卓だの曹操だのに牛耳られて三国志の戦乱期に突入していましたから、実質1世紀初め〜2世紀初めくらいでしょうか。ああ、『玄中記』でも古いのに、そこからさらに100〜300年さかのぼってしまった……(汗)。さらに建武年間(25〜56年)成立の説があったりと、もうどこまで古くなりゃ気が済むんだという感じです。

 この『呉越春秋』では、越王・無余の先祖の話に「狐娘」がからみます。その先祖というのが……何と(う)。

 中国史に詳しい方なら名前で分かるでしょう、中国初の世襲王朝と言われる伝説の王朝・夏の最初の王です。彼以前には、いわゆる「三皇五帝」と呼ばれる神話的な君主しかいません。ご存知でない方には、日本で言えば神武天皇が登場したようなものと思っていただければ大体分かるかと思います。

 これには私も「な、何だってー!?」となり、さっそく『景印文淵閣四庫全書』の「史」部で該当記事に当たってみました。

『呉越春秋』越王無余外伝(底本:『景印文淵閣四庫全書』
[原文]
禹三十未娶。行到塗山。恐時之暮失其度制。乃辭云。吾娶也。必有應矣。乃有白狐九尾。造於禹。禹曰。白者。吾之服也。其九尾者。王之證也。塗山之歌曰。綏綏白狐。九尾厖厖。我家嘉夷。來賓爲王。成家成室。我造彼昌。天人之際。於茲則行。明矣哉。禹因娶塗山。謂之女嬌。
[訓読文]
禹、三十にして未だ娶らず。塗山(とざん)に行き到り、時の暮して其の度制を失ふを恐れ、乃(すなは)ち辞に云はく、「吾娶るなり。必ず応有るべし」と。乃ち白狐の九尾なる有りて、禹に造(いた)る。禹曰く、「白は吾の服なり。其の九尾は王の証なり。塗山の歌に曰く『綏綏(すいすい)たる白狐、九尾厖厖(ぼうぼう)たり。我が家は嘉夷にして、来賓を王と為す。家を成し室を成し、我彼の昌(さか)えを造(な)す。天人の際、茲(ここに)於いて則(すなは)ち行はる』と。明らかなるかな」と。禹、因りて塗山を娶る。之を女嬌と謂ふ。
[大意]
禹は三十歳でまだ細君を娶っていなかった。塗山に行き着いたところで、時期を逸して秩序が乱れるのを恐れ、すなわち言葉に出して言うには、「余は娶る。必ずその応えがあるはずだ」。すると九尾の白狐が彼の前に現れた。禹曰く、「白は余の服の色、九尾は王者の証だ。ここ塗山に伝わる歌では『雄を探す白狐は、九尾でもふもふだ。我が家はとてもよいところで、来客を王にする。家を創り部屋を創り、私はその繁栄を作り上げる。天と人との極み、ここにおいてすなわち行われる』という。それが明らかになった」と。禹はこれによってその九尾の狐を娶った。これを「女嬌」と呼ぶ。

 要するに禹が魔法使い(爆)になりかけていた時、通りかかった塗山の地で吉兆である九尾の狐(日本だと大妖怪のイメージありますが、本来は非常におめでたい獣なのです)に出会い、これぞよい報せだ、とその九尾の狐と結婚した、という話です。ただご覧の通り、文中には「塗山を娶る」とだけ書いてあって、九尾の狐と結婚したかどうかは不明瞭です。しかし一般的な解釈では、「綏綏たる」=「雄を探してさまよう」という詩の句があることから、九尾の狐を娶ったことになっているようです。若干判断には苦しみますが、これで解釈が固定しているようなので「狐娘」話としてこれを解釈してしまっても問題はないと思います。

 さて、本文を見たところで考察です。調べた限りでは、この『呉越春秋』の記述がどうやら「狐娘」の最古の記述になるようです。では、この話が出来たのはいつの時代なのでしょう?試しに前の時代で夏の紀が立っている歴史書を探ってみると、『呂氏春秋』(秦代・前3世紀、呂不韋撰)にも『史記』(前漢代・紀元前97年、司馬遷撰)にもこんな話はありません(もっとも司馬遷は相当歴史に対してシビアな人なので、あえて取らなかった可能性もありますが……「夏本紀」には何の逸話も載せていないし)。大雑把ですが、先ほどの『呉越春秋』建武年間成立説なども考え合わせ、まずは紀元前後(新代〜後漢代初期)くらいにはこのような話が既にあったと考えるのがまず妥当な線でしょう。

 さらに年代特定に一役買うのが、漢代に大流行した神秘思想との関係です。中国では古くから天と人は相関関係にあり、人側に何か問題があると天変地異が起こる、逆もまた然り、という考え方がありました。これが熱病のように大発展し、あらゆる自然現象や日常の出来事を何かの予兆としてかなり無理矢理に解釈する「祥瑞思想」が発生しました。この他にも、四書五経の行間に予言が盛り込まれているなどと考える「讖緯説」など、かなりオカルトな方向へ暴走したりしていたのです。この話にはそこまでオカルトな部分はありませんが、九尾の白狐を分析して「王者の証」とし、地元の歌に結びつける筋書きは、祥瑞思想に通じるものがあります。この祥瑞思想の中核となったのが、前漢代の董仲舒という儒学者でした。彼は前漢でも比較的後の方、紀元前1世紀の人物です。先ほどのような神秘思想のにおいからするに、結びつけられた時期はこの辺まではさかのぼれるかも知れません。想像をたくましくすると相手が夏の禹王という伝説的な大人物であることから、もしかするとその前段階があるかも知れない……と思ってしまいますが、これ以上はさすがに完全に想像になってしまうのでやめましょう。

 つまりまとめると、不確実ではあるものの、「狐娘」という概念自体は紀元前1世紀〜1世紀には存在していたということが推測されるということです。最初の出発点である『倭名類聚抄』からは既に900〜1000年、現代からは最大2000〜2100年もさかのぼることになり、名実ともに「狐娘」こそ東洋最古の獣娘と言っていいかと思います。

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